「よもやまお願いします」

HR業界系演劇男子系サラリーマンのブログ

筋トレが辛いだけだった自分が、楽しめるようになったトレーニング法の話

筋トレを今までの人生で一度もちゃんとやったことが無かったので、

方法を教えてもらって始めようと思いパーソナルトレーニングを2ヶ月してもらって

その後は、その仲間と一緒に週1回筋トレをしているのですが

 

パーソナル終わった後の筋トレ、全然楽しくなくてサボりたかった…。

(いや、仕事の忙しい時はサボってしまっていた…2ヶ月弱)

 

でも最近、楽しくなってきました。

なんでだろうと思ったのですが、

 

サイクルトレーニング、というものを取り入れたら、

コツコツと、強くなっていく自分を自覚しながらやりたい、という

自分の性分に合ったのです。

 

当初パーソナルの時から「いい身体になりたい、自信を付けたい」と言っていたので

トレーナーが結構(いい意味で)負荷高く追い込んでくれていました。

でも正直心の中で

「いや、、もうスクワット70キロは、いやだ…怖いよ…」

と思っていたのですね。

で、実際やっていると、ウェイトを担いだまま上げられず潰れてしまったり。

(もちろん支えてくれるし安全バーはありますのでご安心を)

 

その度に

「あぁ、負けた」

「あぁ、なんて自分は弱いんだ、負け癖だ」

って、自信付けるはずが、自信削られてしまっていましたw

 

そこでトレーナー(今ではトレーナーではなく筋トレ仲間)に

「負荷かけて追い込む重要性もわかっているのだけど、負けた感がいやだから

 もっと、こう、やったった感と、成長実感持って、コツコツやりたい!」と伝えたのです。

※そもそもこの会話をちゃんとしろよ!という話はありつつも

 初心者の時ってマッチョに言いづらかったり「こういうもんかな」と思っちゃったりするじゃないですかね。ね、しますよね。

そうしたら上述のサイクルトレーニングに切替えて行うことになったのですね。

 

サイクルトレーニングっていうのはベンチプレスで説明すると

 

①まずウォーミングアップ(バーだけで8回とかを1~2セット)
②その後、「メイン」の重さを設定して、8回×3セット 
  例えば、自分の場合、その時のMAXが45キロで、
  まだフォームも安定していなかったので、一旦最初のメインを25キロに設定。
  だから、25キロを8回3セットですね。
③その後、「+2.5キロして、次回メインにする重さ」8回×1セット

  サイクルトレーニングでは「徐々に重さを上げていく」ことが大事なので

  +2.5キロで、27.5キロを8回。

④その後、「10キロくらい軽くして」バーを下げた時1秒止めてから上げるのを、

  8回×1セット

⑤最後に、軽くしたままのバーを、狭く持って(ナロー)8回1セット

  狭く持つと、より胸の内側に負荷がかかる感覚になります。

 

これがですね、「負けた!感」が無くて

徐々に数字が上がっていくので、成長実感が大きくて楽しいんすよーーー

 

最初のうちは「なんでこんな軽いので?」と思うのですが

(いきなり強気になる自分w)

軽いうちにフォームを安定させれば「上手になってる!」という楽しさもあるし

いい感じなんすよーーー

 

元々、上げれる重量を高めていく目的のトレーニングらしいのですが、

着実に成長していきたい人にはオススメの方法なんじゃないかな、と思います。

 

ベンチプレスだけでなく「怖い…」ってなっていたスクワットも、

軽い40キロでフォームを意識して、何セットもやって

「お、なんか軽く感じてきたぞ」と思えたら、50キロに上げて、

という要領でやれば、同じように楽しくなるはずです。

(それでもやっぱり楽しむのが難しいスクワットw)

 

でも、スクワットも60キロが平気になってきたので

MAXの80キロに近づいてきました。

 

筋トレは、追い込むものや。

 

という説もあるとは思いつつ、サイクルトレーニングで

筋トレが楽しくなった自分もいるので

「あー、今日も追い込むのか・・・」と思っちゃう人にはオススメでごわす。

 

何故か筋トレ話始めちゃうあたり

ちょっとした趣味になりつつあるな。

 

アヴィニョン演劇祭2017に行くぞー。感動を分かち合いたいぞー。

いよいよ、アヴィニョン演劇祭に初めて訪れる日が近づいてきた。。

楽しみだなー、どんな街なんだろう、どんな祭なんだろう、どんな人がいるんだろう。

 

公式サイトによると、今年は2017年7月6日〜26日とのこと。

jp.france.fr

もう始まっとるやん!そうか始まってるのか。

 

自分は会社の休暇制度で1ヶ月の休みをもらい(いい制度!ありがたい!)

17日に日本を発ち、18〜19日はパリで人に会い

20日からアヴィニョン入りします。初めてのアヴィニョンだー。

 

アヴィニョン演劇祭の情報ってそんなに多く転がってないんだなーと思いつつ

人様のブログで下調べしてみたら、町中で芝居やパフォーマンスが行われていると。

個人的には、3週間早稲田祭デラックスやってる、みたいなことなのかなとw

4travel.jp

 

演劇祭に参加したい側の人向けにも情報発信してくださっている人もいるようです。

アヴィニョン演劇祭への参加を考える方へ - 劇場彷徨人・高橋彩子の備忘録

 

 

僕も日本らしい格好で練り歩いてみようかな。浴衣とか何か。

 

で、確かに楽しみなんですけど、ひとつ懸念があって。

 

今回、一人で行くんす。

 

もう単刀直入にいうと、感動を分かち合いたい。

 

とても感銘を受けた映画なのだけど

「into the wild」の感想を最後に述べるようにしたくない感じがしてるんです。

www.youtube.com

 

 

じゃあなんで一人で行くんだよ、という話なのですが。。笑

それは置いといて。

 

書いてて思ったけれど、だから、どうせ行くなら

その感動を書いて発信してコミュニケーションのきっかけにすれば良いのだ。

そういうことなのだ。機会を自ら作り出すのですね、先生。

 

よし、きっと、感動を分かち合うぞ。現地でも、WEBでも。

楽しみだ。 

組織課題の解決・インナーコミュニケーションなどの領域で仕事をする上で、始めの一歩的な教科書を読んだ

不確実な世の中になってきて、誰も明確な戦略だとか、正攻法だとかが分かりづらい中で、トップダウンで「戦略的行動を徹底せよ!」という、フルメタルジャケット的な組織では、なかなか上手くいかないことが多い、、、

という文脈が多くなってきているのかな、と思います。

 

上の命令に絶対的に従うのではなく、おお~きな方向性だけが決まっていて、その流れの中で各々が自由に動き回っている組織が生き残るのでは、なんていうことも言われているかなと感じます。

 

そんな中で、すぐに「自律的に動ける人ばかりの組織になる」のは難しいわけですよね。組織にはいろいろな人がいて、いろいろな思惑があって、組織にはいろいろな問題があったりすることが多いと思います。

そんなとき「組織で起こってる問題の大半は、組織において支配的なコミュニケーションの在り方によって、起こってるのでは?」と提起されている本を拝読しました。

「なんで出来ないの?」などと詰めるような会話・議論ばかりではなくて、「対話」をしましょうよ、ということを非常に分かりやすく記載していただいています。

ということで、前置き長くなってしまったけれど、以下書籍を読んだ感想を書いてみようと思います。

【ダイアローグ 対話する組織】著/中原 淳 , 長岡 健**

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▼「ダイアローグ 対話する組織」を読んで
全体を通して「対話とはなにか」「対話が、なぜ必要で、他の手段と並列してどう有効か」について非常にわかりやすく解説していただいている印象でした。
特に印象的だった部分と、それらに対し思ったことを記載していきます。

▼印象に残ったポイント列挙(詳細は後述)
(1)企業が抱える様々な問題における根源的な原因(解決すべき課題)は
「組織において支配的なコミュニケーションの在り方」である。
(2)「対話」は「議論」とは異なるものである、という定義
(3)コミュニケーションには、「情報の移動」と「人の変化」という2つの捉え方があるということ
(4)ものごとの「意味」「良し悪し」は、コミュニケーションの中で紡がれるものであるという前提(社会構成主義
(5)対話とは。対話=ディア・ロゴス=言葉を・分かちもつ=2人以上の主体がお互いの話を聴くこと
(6)問題解決と問題設定と2つあり、対話は問題設定を行うのが得意
(7)知識の共有を行う際は、すべてのパターンを体系的に言語化し尽くすことは事実上不可能なため、語り合いにより共有する方が良い
(8)組織学習において「捨てる」という行為も大事な構成要素である

▼各ポイントの詳細な感想

(1)企業が抱える様々な問題における根源的な原因(解決すべき課題)は
「組織において支配的なコミュニケーションの在り方」である。

組織における問題の根源的な原因が全てそれだとは言えないですが、非常に共感した内容でした。
例えば、経営における戦略を実現するための組織行動を実施する際には、戦略テーマなるものを組織内に設けたりする等して、ライン(現場)で行動(業務)を実施するために、あれこれ計画を立てて広めていくと思います。
ただ、計画が伝言ゲームで組織へ広まっていくとき、往々にして初めに経営サイドが思っていた通りに行動が徹底されない事態が起きると思います。
その伝言ゲームの難しさをクリアするために、経営は色々な手法で伝えようとします。
行動を規定する【業務定義・ワークフロー定義】、業務を教える【育成】、行動を実施した人・業務を褒める【評価制度】、業務を知らない人がすぐに周りに聞ける【ナレッジ還流】などです。

方法は様々ですが、いずれの場合も、AさんからBさんに「伝える」というコミュニケーションが必ず発生します。そのため、どのようなコミュニケーションによって伝言しているか、は非常に重要なポイントだと思います。

職場でのシーンを思い浮かべてみても、同じことを言われているはずなのに、「Cさんから聞くと納得感があるしすぐ行動できるけど、Dさんから聞くとどうもピンと来ない」なんてことがあるかと思います。その割合、つまりCさん的な人と、Dさん的な人の組織内の割合によって、組織における支配的なコミュニケーションが決まっていくと思いますが、どんなコミュニケーションが組織を支配しているかが、伝言ゲームの結果を左右すると思います。これは自分が今の組織にいても、なんとなく肌で感じるものだなとも思います。

結局、「どんなコミュニケーションで伝言されたか」でその後の行動が変わってくることが多いので、戦略的な行動浸透における、ある意味“ラストワンマイル”に強い影響を与えるのが「支配的なコミュニケーションの在り方」だと言えると思います。よって、そこが良くないと当然結果は伴わない訳なので、根源的な原因の1つと言えると感じました。
この本では「伝言ゲームをするときに、対話という方法がいいよ」と言っているのかなと思います。

(2)「対話」は「議論」とは異なるものである、という定義

単語が異なるので、読む前からなんとなく「明確に違う物として扱いたいのだろうな」とは思っていました。具体的には「議論」は、結論を出すことが目的であり、だいたいの場合、A案とB案を戦わせる形式だと置いています。一方で「対話」は、結論を出すことを目的とせず、お互いが思っていることを自由に出し合って、意見をすぐに評価せず「ふむふむ、そう思っているのね」と分かち合い、議論を行う上での前提を共有しあうもの、というように記載されています。

個人的に非常に重要なポイントだな、というか、勘違いしちゃいけないなと思ったのが、常にいつ何時も対話すべし、と書かれている訳ではない点です。
つまり、何らか複数人で話して合意形成をする際に「対話」と「議論」を都度使い分けて話し合うと良いよ、と述べられていることです。
当然といえば当然なのですが、その時々で使った方が良いコミュニケーション手法を取ろうね、という考えであることには自覚的でいることが大事だと思いました。

(3)コミュニケーションには、「情報の移動」と「人の変化」という2つの捉え方があるということ

ここは個人的に理解が難しいなと思ったところです。難しい理由は「コミュニケーション」というものを、対話⇔議論という切り口で語ったり、上記のような切り口で捉えたり、いろんな「コミュニケーション観」があるため、全体像の中でどの切り口で捉えているんだっけ、ということを見失いやすいからだと思います。
ただ、ここで言われているコミュニケーションの捉え方は新鮮です。

普段、多くのコミュニケーションは「情報を人に伝えるもの」と捉えられます。その際、大切にされるのは、論理的にわかりやすく伝えることであったり、論理的なだけでは伝わりづらい場合にはストーリーテリングと呼ばれる方法で語ったり、といった内容、つまり「話し手から聞き手に対する伝え方」です。伝える目的なのですから当然なのですが。

一方、ここで記載されているコミュニケーションは、話し手と聞き手という立場が存在することは前提としつつも、相互に、継続的に、理解をし合うというプロセスに注目しています。単に情報をわかりやすく伝えることをコミュニケーションであると捉えず、伝え方や伝わり方だけではなく、いずれの方法であっても、それが両者をどのように変化させているか、というコミュニケーションの過程に目を向けているのです。目的あっての手段なのだから、手段を用いているプロセスに意識を向けすぎても仕方ない、という反証はあると思います。しかし、プロセスに目を向けてみると、コミュニケーションの在り方を考え直すことができるよ、という示唆があるのだと思います。

ここで改めて内容を振り返ると、コミュニケーションとは「人の変化」である、という言葉だけ聞くと理解がすんなり行かないのですが、話し手と聞き手がコミュニケーションを行うプロセスの中で、相互にどう理解を深め合っているか、ということに目を向ける考え方だよ、と噛み砕くことである程度理解ができるものだなと感じます。

(4)ものごとの「意味」「良し悪し」は、コミュニケーションの中で紡がれるものであるという前提(社会構成主義

過去先輩から「人の特徴には、良いも悪いもない。特徴を、良い方向に転がすためにどうすればいいか、だけを考えればいいのだ」と言われました。当時、自分の良くないところを直そうと思っても直らず、自分の持つ特徴を憎らしく思いながらドン底に悩んでいた自分はハッとしましたが、それを思い出しました。物事や事実それ自体は、そこに在るだけであり、それをコミュニケーションを取る中で良くないものとするのか、良いものとするのか、捉え方や扱い方を考え行動することが重要なのだと思います。

(5)対話とは。対話=ディア・ロゴス=言葉を・分かちもつ=2人以上の主体がお互いの話を聴くこと

対話を構成する要素は「2人以上の主体」「聴くこと、それは相手の話を判断せず留保しながら耳を傾けること」「私は〜、と自身を主語にしたストーリーテリング的な発言」「自由な雰囲気で、真剣に話すこと」であると理解しました。
余談ですが、抽象的で捉えどころの無いモノを理解する際に、それを構成する要素を棚卸し、グルーピングし、要はこういう要素で構成されているモノだよね、と理解を進めていく方法はとても手間がかかりますが大事なプロセスだと思います。

(6)問題解決と問題設定とあり、対話は問題設定を行うのが得意

特に印象的だったのは、ベトナム戦争時のアメリカにおいて戦況の悪化に対し、非常に優秀な政権幹部が都度問題解決の思考により取るべきアクションを実践し続けたため、結果的に泥沼化の方向へ進んでしまったというベトナム戦争の振り返りの記述です。
そもそも大局的な視点で解くべき問題を設定することなく、戦況に応じて問題解決をし続けた結果、問題解決能力が非常に高いが故に、皮肉にも問題に終わりがなくなるという点に注目していて面白いです。

(7)知識の共有を行う際は、すべてのパターンを体系的に言語化し尽くすことは事実上不可能なため、語り合いにより共有する方が良い

これは、自分が前の部署で組織内のナレッジ環流を促す仕事を行なっていた時に感じていた課題感と共通する言葉が用いられていることもあり「そうだよなあ」と思って読んだ部分です。
効率的な知識共有で近道を通りたい時には体系化してしまいたいのですが、それが結果近道ではない類の話もあるわけです。組織の仕事をしていると、ついつい組織的な効率観点だけを盲信してしまって、物理的な拘束を伴う語り合いの時間を軽視しがちですが、急がば回れの時もあるようです。

(8)組織学習において「捨てる」という行為も大事な要素である

学習というと、常に新しいことを習得していく作業だと思いがちですが、組織を取り巻く状況の変化もある中で、過去に学んだことが今なお有効であるとは必ずしも言えないため、組織において蓄積された学習内容を見直し「もうこれはやらない」という捨てる行為も学びの一環であるとする考え方です。
意外と忘れがちなプロセスだなと思うので、大切にしたいです。

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以上です。乱文失礼しました。

ヨーロッパ企画 「来てけつかるべき新世界」 @神奈川芸術劇場KAAT

ヨーロッパ企画の公演「来てけつかるべき新世界」観てきました。

 

www.europe-kikaku.com

 

 会場は初めていく、KAATこと、神奈川芸術劇場。

わざわざ横浜まで芝居観に行くって、それだけでもわくわくしますね。

 

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※まだ神奈川公演や名古屋(だったかな)の公演が残っていらっしゃるので

 なるべくネタバレ的なことは書かないようにするつもりですが

 (いや無理か・・・?)

 これからご覧になるという方は読み飛ばしていただくようお願いします。

 

 

 

さっそく一番印象的だったシーンを書くと

なんか頭のうえにビリケンを乗せた女性が出てくるのですが

その女性の「マインドアップロード」をするシーン。

 

 

マインドアップロードは、要は自分の人生経験ログをデータとして保存して

サーバの中に自分の人格(ソフト部分)を残しておく、ということ、だと解釈。

 

 

芝居全体の構成においてマインドアップロードするシーン自体は

次に起こるドタバタ劇の前振りみたいなものなのでそれほど重要じゃないと思うんですが、自分が気になったのは、そのアップロード時間、の短さ。

 

 

まがりなりにも20年だか30年だか人生生きて来て

圧倒的な情報量を持っているだろう人間の脳、また

そのシナプスとそこを行き交う情報をアップロードするのが

たったの5秒やそこらで完了してしまう。

 

そこに「人間っていとも簡単に複製できてしまうちっぽけな存在」

なんて含蓄はなかったと思われるのですが

なんだか自分には勝手にそういう意味合いを感じてしまって

ちょっとおぞましい気持ちになりました。

 

素直に受け取ると、テクノロジーが進歩して

それくらい難しいことも「いとも手軽に」できてしまう世界では

テクノロジーが生み出された背景や本質、そのリスクについて

十分思いを至らせないまま、使っちゃう人が現れるんだよ〜

そうなると、こんなドタバタ劇が始まるんだよ〜

というような意味合いに捉えればよいのだと思いますが。

 

 

シンギュラリティを扱っていて面白かった映画「トランセンデンス」

(ジョニーデップ主演)も彷彿とさせるような内容で

ワクワクゾクゾクする系のテーマを

大阪新世界という「笑える設定」で描写していて面白いお芝居でした。

 

 

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明日のアー 「猫の未来予想図Ⅱ」を観てきた

明日のアー。

あすのあー、と読むそうです。

 

巷で人気の猫をモチーフにした?

猫っぽい?猫的な?猫をテーマにしたっぽい

演劇がどうやらあるようだ、ということで

キーワードに引っ掛かって観劇することに。

 

asunoah.tumblr.com

 

そんなノリで予約をしたので一応事前情報を

チェックしておこうと思いまして

上記サイトを訪問してみました。

カオスな、曼荼羅的なビジュアルデザインですね。

色使いは、なんというか、全然言葉が出てこなくなっちゃいましたけど、3分考えて思い出せないのですごい雑な説明になっちゃいますけど、

今っぽい、EDMに合う的な?(EDMすらよくわかってないですが)

VJが色々間違ってテキストも入れちゃった的な?

自然言語も含んだ非構造データをとりあえず

多変量解析ツールにぶち込んで解析してみたら

勝手に形態素解析されて、いろんな単語が構造データ化されて

画面に飛び出てくる的な?

そんな幅広いものを想起させるビジュアルだすね。

 

なので、事前情報らしい事前情報も無くして

(いや、すみません、コントである事はわかりました)

とりあえず、劇場に向かいました。

 

 

いい〜感じに脱力した「演劇!」という感じは全然なくて

お芝居というよりもコントで、

ただ、コントだよ!わろてって!って感じでもなく、

コントォ〜、コントする〜?

みたいな感じのゆるゆる抜け感のある雰囲気の芸でした。

面白かったです。

舞台面に立つ人たちも、個性的な方が多くて

年齢層と、話し方も、好きなこともおそらくバラバラそうだなーと思わせる

ポスターのカオスさにも似た感じでした。

 

舞台面に立つ役者って、その人の人生がにじみ出たりすると思うので

やはり年長者の皆さんの個性が強く感じましたね。

 

平日夜遅めの時間から、気を抜いて観るのに

とても合う芸だったと思うので好きな感じでした。

 

 

特に面白かったシーンはなんだろう。

レイバンのスパムが町中のアンドロイドロボットをハックして

田舎から来た少年に次々にレイバンを売り込もうとするシーンで

3人目に出て来たレイバンスパム演じる女性が

前2人のスパムが、舞台正面、左右を順番に「レイバンのサングラスは2980円!」

と言って回るようにプログラムされていたはずなのに

その人だけ、急に後ろに下がって、お相撲さんのようなポーズで

言い出したことですかね。

 

期待する動きとのギャップと動き自体の面白さと

他のスパムのようにプログラムされきらず個性出して動きを変えて来たこと

相まって、声あげて笑いました。

  

ただ、最初の最初だけは

現代口語演劇的な入り方でありつつなんとなくアングラ感ありつつ

割とコテっと笑かそうととしてる芝居だったので

「これは演劇?コント?ガチ?おふざけ?」

という疑問を抱えながらの序盤で、

それはそれで演劇見に行った時の最初の緊張感として

僕的には「この感じよいよぉー」ではあるのですが

舞台面に立つ人たち的には、特にいた付きではなく次に出てくる人的には

緊張する出番だろうなーと思いました笑

 

そこに安定感のあるオトナ(のダンディなおじさま)が入って来てくださって

安心しましたね。

 

 

自分も演劇はいろいろと舞台に立たせてもらったり

あるいは、自分で企画しようと試みたり

あるいは、会社内で新規サービスとしての演劇を考えたり

いろいろ思うところはあったのですが

なんか「演劇」ってフレームで考えることから離れて

なんか人だかりの真ん中でオモロいことする、

的な行為の方が性に合ってそうな気もしましたね〜。

  

ああいうことを定期的にゆるゆる

でも、メッセージは刻みつつやっていく大人になりたいですね。

刺激を受けました!

 

めっちゃめちゃ消費者な感想となりましたが、現場からは以上です。

 

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寺山修司さんの市街劇

クラウドファンディングのCAMPFIREで半年ほど前に立ち上げた

VR演劇企画のページを見て、ご連絡をいただいた方々と先日会ってお話ししていました。

どうやら彼らも演劇をVRというテクノロジーを使った演出手法で行いたい、ということでした。

 

落合陽一さんのゼミに参加されて

そのゼミにおける制作活動としてのVR演劇だそうです。

 

そんなお二人に教えてもらったのが

こちらの寺山修司さんの動画。

非常に面白いです。

 以下がリンクです。

 

www.youtube.com

 

 

 

寺山さんの脚本の芝居「書を捨てよ町へ出よう」を

東京芸術劇場でマームとジプシーの演出家の演出で公演したものを観た時、

とても難解だと感じました。

www.confetti-web.com

 

が、この動画で語られる演劇論はとっても分かりやすいですね。

 

演劇ってそういうものか、と。

おさらいさせてくれるような感覚です。

 

 

で、全然関係ないことを動画みてて思ったのですが笑
昔の人ってぶっ飛んだ人多いなって感じるじゃないですか、

真偽はともなくとして「最近の人はおとなしい」という論調も多い気がします。

 

それをすべて鵜呑みにする必要もないですし、

というか誰かそこを科学検証したのか知らないのですが、一旦その前提に立ってみたとき
その原因の一つってやはり、SNSの登場だったりするのかな、と。
SNSを観て、遠くにいる人も近くにいる人も「何やっているか」近況がすぐわかるし、「こんなことやっている人がいる」ってすぐに知れるじゃないですか。

マークザッカーバーグさんが今日何してたか、も投稿で知れたり、すごいことです。


だから(ここは解釈が分かれると思いますが)ある程度「こういうことやればウケる」とかフェアウェイが分かりやすいが故に、そこまでぶっ飛んだことやる人が現れにくい。

それこそ炎上リスクもあるので。

 

一方、昔の人は、周りの人が何やっているかわからない。

だって携帯電話もないわけなので、寺山さんが動画で言っているように「新聞で見る」くらいしか周りの情報が入ってこない。
だからこそ「ここまでやってるやつはいないだろう」とか、

一方で「これじゃ周りに勝てないかも、もっとやろう」みたいな力学が働くこともあるのかなと。
炎上リスクも無いので制約も少ないですし。


そんなことを、ふとを思わされる動画でした。

 

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「アートと社会」を読んで【1】

森美術館の館長南條さんのインタビュー記事をNewsPicksで読んで

南條さんのように「ビジネスサイド」と「アート」の両面に関して

見識のある方々ってかっこいいなと思っております。

いつか自分も領域横断で働きたい。

 

www.mugendai-web.jp

 

そこで、南條さんが編著で名を連ねていらっしゃる

「アートと社会」という本を読んでみました。

これが面白い面白い。

https://www.amazon.co.jp/dp/4487809991

 

本は、2010年から2014年度まで慶応義塾大学で寄附講座として開講された

「アートと社会」という講座の内容をかいつまんで書籍化されたもので

内容は、マクロな視点で演劇産業を捉えたり

歴史的な視点で絵画の「大きさ」を捉えたり、他にも

メディアアート戦争画、建築の再解釈、など多岐にわたっていて

アートのことをたんまり知れる、お腹いっぱい本になっているなと感じます。

 

特に印象的だった文章がいくつかあるのですが、

1個まずは紹介してみようと思います。

 

テクノロジーとアート

〜1990年代末ころの日本のメディア・アート状況から、現在へ〜

 

NTTインターコミュニケーション・センター(ICC)の主任学芸員

畠中実さんが担当された回です。

 

そもそもメディア・アートって最近よく聞くけれど、

それってどんなアートのことを言うんだっけ、ということを

まずは歴史とともに紐解いてくださっています。

 

 ※ざっくり解釈したことで言うと

 

 ・テクノロジーアートと、メディアアートの2つある。

 ・テクノロジー・アートは、1960年代〜1970年代、

  日本の高度経済成長後期から、大阪万博くらいまでの間で発展。

  人の手仕事的なアートの衰退につながるものとして、

  アートの主流としての評価は得られなかった。

 ・メディア・アートは、1980年代以降、

  コンピュータグラフィックスなどの隆興とともに発展して、

  表現における技術偏重さが否定的に捉えられて、

  同様に当時は主流とは認められずらかった。そうな。

 

そして、この章で最も印象に残った部分は

現在、メディアアートが当時と違い、アートの主流の1つとして認められつつある

状況も踏まえた上で、以下のように書かれているところです。

 

"これまでの「テクノロジー・アート」が、新奇性という側面でしか語りえず、

時代の徒花(※むだばな)的な見え方しかしていなかった時代を抜け出て、

よりテクノロジーを使うことが一般的になった現在、

ようやくそこで使用されているテクノロジーへの

回顧的な視線が現れているとも言える。

それは、テクノロジーを使った作品が、その新奇性によってのみ制作され、

注目され、そして、時間をかけて鑑みられることのないまま、

また新しいメディアへと移行してしまうというこれまでのサイクルから脱して、

よりテクノロジーが一般化した後のパースペクティヴを描く作業が

求められているということでもある。"

 

 

つまり、いよいよ主流になった今、

30年前と同じように、ある意味一過性のものとして捉えられないように

メディアアートは何であるか、何と捉えるか、

逆に、メディアアート側が、社会をどう切り取り、どんな世界観を有するか

示していくことが必要なのでは?と問いかけていらっしゃるのかと思います。

 

 

あ、でも、一方で、そんな小難しい問いかけに応える義務、

なんというか「お兄ちゃんなんだからね?」とか「そろそろ横綱相撲しなきゃね?」

みたいな問いかけに応える必要があるのか、というのはわからないのですが、

メディアアートって、こうだよね」という共通言語ができるのは

面白いなと思います。

 

その面白いの理由、というか、面白いと思う目的は

一緒にメディアアートについて、メディアアートと社会について

あーでもないこーでもない、と周囲の人と話す時間を楽しむことが

できるようになるからかなと感じます。

 

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