思えば遠くへ来たもんだ

AIが浸透した時、アートの人生に占める割合が増えると言われる時代。アート産業で仕事がしたい演劇男子サラリーマンの日記。

160911 感想  宮沢章夫さん「子どもたちは未来のように笑う」@アゴラ劇場

宮沢章夫さんの「子どもたちは未来のように笑う」

を鑑賞させていただきました。

とてもいろいろなことを感じることがあって

それは、子供を産むというテーマに敏感だから、ということではないのですが

演劇的に、そして、テーマに対してもいろいろを感じることがありました。

 

いま、とても私的にやりたい企画公演に向けて

初めての脚本(骨子)執筆を進めていることもあり、

あれがなんだったのか、を言葉にしたくなりました。

 

まだ公演は続いていらっしゃいますので

ネタバレになるような中身の話は避けているつもりですが、

万が一のために、観る予定の方はお読みならないようにお願いします。

 

 

鑑賞した後、思ったことは劇中には

子供を産むということについて、いろいろな視点があり

その視点で語れる「意見」「意見らしき言葉」があった。

 

構成的な話で感想を振り返ると

 

その言葉を、そのままセリフにしてしまわないで

その言葉をあぶり出すようなセリフの応酬が描かれているのが

脚本なのかもしれないな、と感じた。

 

ただ、やはり、決定的な意見はいずれかの役者によって語れることが起きるものでもあると、最後のシーンを見て思った。

逆に言うと、最後のシーンまでは壮大な、そして、緻密な前振りなのかもしれない。

 

もちろん、文字通りの前振りなのではなく、

積み重なっていくような感覚もあった。

 

ただ、強いて言うなれば、積み重なっていく要素の主な部分が

子供を産むことに関する意見やそれを題材にした書籍を役者が読む、という

直接的な表現を使われていた。

 

もちろんそれら著作や意見は、互いとの関係性や相関を前提にしない形で描かれているため、

見ている側としては、それらのつながりを紐解く必要がある。

ただし、それは現実的ではない。

なぜなら、読んだこともない著作を早口で読まれていくため

一度でそれらのつながりや、本作での立ち位置を理解しながら

全体像を理解し、最後に向けて自分の中で紡ぐことは

非常な集中力と読解力が必要な作業だからだ。

 

ただし、先輩からも「宮沢さんの芝居は、構成や流れを読み解こうとしてみるではなく、ただ、目の前の芝居を素直に眺めるように見た方が楽しめる」とアドバイスをもらっていた通り

上記のような集中した見方を求められていないのだと感じる。

 

そうしたことも踏まえ、今回は「ばくっと何か大きなボールを受け取った」ような、

ずっしりと、重みのある感覚を見ながら感じ

大いに笑いながら見れたので、

総じて、本当に面白く鑑賞できた、というのが感想である。

 

 

テーマに関する感想の振り返りでいくと

 

まず、そもそも障害を持った子供を産むこと、その事実が

自分の周りにあるのかどうか、それを認識する生活が自分にあるのか

ということが気になった。

 

小学校の時、自分の町には名古屋で最も大きな特別支援学校があり、

障害を持った子供を知り、理解し、交流するためのプログラムがあった。

年に1回、支援学校を訪れて、一緒に風船バレーボールをしたり

車椅子を押してあげたり、お花を一緒に見たり、

いろいろなことを通じて、時間を共に過ごす時間があった。

 

もう覚えていないくらい前のことで、いま思い返すと、どこか美化してしまうような作用があるのかもしれないけれど、思い出すとすると

 

最初、行く前は「わからないから、少しビビる」という気持ちだったような記憶がある。

自分のような人間が、障害のある子と接して、何か悪い影響を与えたり、気分を害してしまったりしてしまわないか。

何か起きた時に、うまく対応できるだろうか。

そもそもちゃんとコミュニケーションが取れるのだろうか。

 

でも、これはしっかりと覚えてるけれど

バレーボール風船をやってみたら「あ、普通に一緒に遊べるんだ」と感じた記憶がある。

普通とは何か、人によっては違うのだが

少なくとも、公演で一緒に野球はできなくても

体育館で共通のルールを持って、風船バレーができることがわかった。

勝負を一緒に楽しんだことを「想定よりも普通」と感じたのかもしれない。

 

それが初めて障害に触れた体験だったと記憶している。

 

次に、子供を産む、子供を持つ、ということで言うと

 

「男は考えない(考えが足らない)」という描写が劇中にあった、ように感じた。

「だって、俺らは産めないから」という言い訳が漂っていたように思う。

 

確かに産めないのだが、確かに自分の精子が半分入った生物が

もう半分の責任を持つ相手から出てくるわけなので

考えないことには始まらない。

 

考える、というのは基本的には、結論を出すということなんだけど

どうもこのテーマにはそればっかりじゃない気もした。

 

検査では97%しかわからない。

だから、究極、「100%の安全はない」のと同様に

100%正しい結論はないし、100%の原因特定もない。

自分の精子が悪いかもしれないし、相手の卵子が悪いかもしれないし。

 

そうした不果実な状況で、確からしい判断をするためには

考えておいた素地を用意しておかないと対応できない、という意味で

考えることがスタートなんだろうなと思った。

 

webや紙のメディアに書かれた点としての「情報」に振り回される男たちが描写されていた。

ある男は「僕が思ったのは~~」という発言をするが

それに対しては残りの男は冷たい反応しかしない。

でも確からしいメディアに書かれた情報を話すと、傾聴しようとする。

 

そこには違和感を感じた。

情報を解釈して自分から出てくる意見は間違ってしまうことはあれど

アウトプットした方が良いはずで

でもやはりその論拠の信ぴょう性は確かめた方がいい。

 

劇中の男女に大きな違いがあるとすると

男は、右往左往して考えるプロセスを経ているのだが

そのプロセスを経ている実感が自分を慰めていて、その時点での確固とした意見までは昇華できない弱さがある。

女は、右往左往したプロセスは表に出さないけれど、その時点で確固とした意見を言うことができている。一方、男に対して最終的に結論を求め、詰め寄る傾向もある。

 

大きな違いは、自分ごととして捉えているか否か、なのかもしれない。

もう少しいうと、自分に差し迫ったものとして捉えているかどうか。

こういうと、当たり前のように見えるんだけど。

 

 

さて、では、障害を持つ子供を産む、という掛け合わせはどう捉えていくのか。

 

 

わからない。

 

障害は、特徴であり、

特徴は、良いも悪いもなく、

特徴は、ただその人に付随する客観的事実であり、

事実は、見る人の解釈によって意味合いが変わる。

 

理屈でいうと、そういうことなのかもしれない。

 

相模原の事件後、自分のSNSのタイムラインには

障害について書かれた記事が時々現れるようになった。

またテレビ等メディアでも語れるのを見聞きするようになった。

 

印象的だったのは、確かフリーキャスターの堀さんが引用していたことで、

障害者の障害という漢字を「害と書くな」というのは的外れで

障害者は、その人が害なのではなく

その人を受容できない社会によって、その人が害を被っているから

害なのだ、という考え方を紹介されていたことだ。

 

初めて聞いた考え方だった。

人の特徴を、よくないものだと解釈させる判断基準を

生み出すような共通認識が社会にある。

 

 

なんでだろう。

 

 

共通認識って、なんでできるんだろう。

一つは、楽な方向に均質化していくのでは?ということ。

 

飲み会で「あいつはいじっていい」という共通認識(雰囲気)は

楽に自分を守れるし、楽に笑いの種が生まれる。

 

楽ってなんだろう。

考えなくてもいいということかな。

考えないから、共通認識が生まれていく?

 

とすると、障害のある子供を産むということを

考えることが大事。

ひとっ飛びな感じが極めてするし、何も進んでない気がするけど

一旦、そういうことだろうと思う。

 

 

特徴を、特徴だと捉えられないのは

共通認識がそれを悪しきものと捉えるから。

その共通認識は、考えてない人の集合体が生じさせている。

 

特徴がある子供と対峙するのは、両親、とその親族。

10人いかないくらい。

産むかどうか決めるのは究極母親一人。

 

僕は産んでほしいと思った。

 

 

芝居的な観点でいうと

 

遊び心溢れる演出の数々が

リズミカルで(文字通り男性陣がリズムを刻むシーンも)

お尻痛くなりそうでならない1時間45分。

 

役者の皆さんも一人一人が魅力的で魅せられた。

 

あの距離で、あんな狭いところで、存分ばしばしエネルギーを感じられて

贅沢な空間だった。

 

あー、おもしろかった。

 

 

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テクノロジー×演劇の脚本骨子を書いてみたら「ありがとうの奪い合い」を妄想した

テクノロジー×演劇という企画に、

技術的な側面から助言してくれている油絵画家出身のVRプログラマーさん。

いつも打ち合わせでは、技術的な話だけでなく、

美大で培われたアートの話をしてくださる。

 

今回は、テクノロジーという手法に立脚して企画を構想しているため

テクノロジーで面白さが増幅されるような脚本を書く必要がある。

 

テクノロジーが馴染む脚本とは何か。

おおまかに言うと「抽象度がある本」。

お茶の間でお父さんとお母さんが近所の八百屋の話をしている、という

現代口語演劇的な物をもう少し抽象度高く表現した方が良さそう。

 

※一方、企画の広げ方という意味で、真逆に考えてみるのも面白い。

それこそ、お茶の間での会話を、思いっきりテクノロジーふんだんに演出した方が

かえって面白いということも言えそうだな。

話している時に熱が帯びてきて、お父さんが燃えたり

お母さんの唾が弾丸のようにお父さんに突き刺さったり。

 

ただ、抽象度を高めすぎると、今度は演劇のリアルの制約や
かえって文学としての存在感が増してくる。

 

例えば、こんな世界観は馴染むのだろうか。


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貨幣経済の先の未来。
人は「ポイント」を通貨として売買を行う。

 

ポイントは、人から「有難う」と言われて得られる。
人から「有り難い」と思われる言動をすることで
自分のポイントを増やし、自分が自由な生活を行えるようになる。

 

事の善悪よりも、儲かるか儲からないかで活動を決めてきた貨幣経済から
事の善悪により、ある意味、儲かるか儲からないか決まるようになった世界。

 

人は自分の「ポイント」を相手に対し渡し
他人から「ポイント」をもらうことで生活する。

 

「有難う」と言うことが、相手に対し自分のポイントを付与すること。
「有難う」をたくさん言われた方が、何でも手に入れられる。

 

すると、
もっと何でも手に入れたいから
もっと「有難う」を言われたくなる。
「有難う」の奪い合いが始まっていく。

さらには
「有り難いことのインフレ」が置きていく。

 

 


「雨ですね。あ、傘をお持ちでない?これ使ってください、どうぞ」

 

「・・・」

 

「困っているんでしょう?どうぞどうぞ」

 

「そうやって困っているだろうな、という人に手を差し伸べて

 自己肯定感を増していかないと生きている意味を見出せない。

 そうお見受けしました。
 あなたに生きる活力を与えるために、傘を受け取ろうと思います。」

 

「・・・」

 

有難うが言えなくなっていく。
お互いが善を押し付けあう。
建前と本音が、善悪の周りで見えなくなっていく。

 

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例えば、こういう世界観。

 

 

VR演劇をやりたいけど、脚本が無いから妄想をしてみる。

演出方法ありきで始まったVR演劇の企画。

技術を見せたいのではなく、演劇を面白くするための手段としてのtech。

では、自分が捉える世界観とは何なのだろうか。

 

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この社会は

情報が溢れている、だけではなく

情報に対する解釈が、溢れている。

溢れていて、コップからこぼれ落ちるくらい。

溢れているというより、無数に散らばって、宇宙を漂うくらい。

 

解釈は、目と口で構成されている。

他の人の目、口が、自分たちの言動ひとつひとつに解釈を与えている。

言動は無数にあるが、自分がやった一つの言動も実は解釈の目から逃れられない。

(自分の周りに目と口が、生々しくなく、抽象的に浮かんでいる。)

 

本当は、汗を垂らして、踊りたい青年Aがいる。

どうせ一回きりの人生の舞台だから、踊ろうと思っている。

でも、なぜだか解釈の目と口に動きを抑えられている。

 

舞台にあがる妄想ばかりが膨らんでいく。

妄想はもはや自分にとって現実に感じるくらいに、

ありありと妄想している。

 

体はずっと家の中にいる。

でも妄想した自分は、あいつにも、そいつにもなれる。

景色がどんどん変わっていく。

 

昨日、南半球にいたくらいの勢いで景色がぶっ飛んでいく。

体は家の中なのに。

スイッチが切り替わるように、いろいろな自分になれる。

 

(この話は、このまま抽象的な話を進めていくわけではない。

 序章として妄想に取り憑かれた青年Aの姿が浮かび上がっている。)

 

妄想か現実かどちらかわからなくなった街。

実は、言いたいこと、やりたいことをやると、疎まれる街がある。

 

食べたいって言ったら、ダメと解釈されるのか。

踊りたいって言ったら、ダメと解釈されるのか。

それは、実は、誰にもわからない。

 

誰が言うかによって、ダメかどうか、解釈されるから。

自分はどこまで言っていいのか、やっていいのか、試してみるまでわからない。

チキンレースみたいな話。

 

妄想の世界にも、なぜだか解釈のパトロール官が入ってきた。

あれ、いや、妄想の世界では解釈されないはずだ。

(解釈が”カイシャク”という一つのキーワードに変わってきた)

 

でも、確かに妄想の世界の中で、さっき隣の彼が

「あー、もう●●してー」って言ったら解釈されて消えた。

だからここはリアルの場所なのかもしれない。

あれ、妄想の始まり、どこでセーブして、どこからリスタートしたっけ。

あれ、昨日飲み過ぎたからいつ妄想に入ったかも覚えてない。

 

もういいや。わからない。

でも、わからないところまできたら、逆に吹っ切れる気もしてきた。

どこまでやったら解釈されるのか、試してみよう。初めて、踊ってみよう。

踊りのジャンルも決まってないけど。

 

いやいや、まだリスクじゃない?解釈1回で終わるよ。

じゃあ、俺の分身みたいなやつにやらせればいい。

青年Abにやらせよう。

青年Abにまず何やらせようか。(ここで何か選択肢が欲しいかもしれない)

 

青年Abが●●をやった。

そしたら、青年Abはすぐに解釈されて消えた。

(消える瞬間は、割と騒がしい音がなるはずだが、イラッとするほどの音もならない。

 気づいたら消えている、くらいの感覚で、消えてしまう。)

 

青年Acには、もっといけないことをやらせてみた。どうせ消えるから、そこを見たかった。

どうやって解釈されているのか見たかった。

でも、青年Acは解釈されなかった。なぜだろう。Abよりも悪いことしたはずなのに。

悪いと思ったのは自分だけで、目と口からは悪いと解釈されなかった。

 

この後なんどか繰り返したけど、消えたり、消えなかったり。

解釈の基準がわからなくなった。

わからないと、何もしたくなくなった。

解釈されたくないけど、されたい自分がいた。

他の人の言動を見るようになった。あ、気づいたら青年A以外にも周りには人がいた。

人の動きが目に見えるようになってきた。

 

あいつ何やってんだろう。あ、消えた。

こいつ、バカだな~、おもろいな~。うわ、こんなによく踊れるな。

ははは、おもろい、何これ、どんどん激しくなってる。うわ。すげーな。

あー、そろそろ疲れてきたか?もっといけない?あれ、いけない?

あー、なんかもういいかな。疲れ見えてきたし、お疲れお疲れ。あ、消えた。

 

うわーーー、なんか気づいたら、なんかすごい数の人らしきものが見える。

でも、すごい変な形のウネリになって、渦のように、鯵の大群のように

うねっては消えていくのがほとんどだな~。

人の大群、社会のようなものが、うねって消えたり現れたり。

でも消えているな~。見ようと思って見た先に目をやると消える。

見ようと思ったら消える。なんでだろう。

 

(青年はいつ気づくか分からない。自分が解釈する側になっている。)

 

 

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世界観を現実で目に見える形する手法として技術を使いたい。